究極にシンプルながら、かくも奥深き乗り物、自転車。楽しみ方から歴史、モノとしての魅力、そして個人的郷愁まで。自転車にまつわるすべてに造詣の深いブライアンが綴る「備忘録エッセイ」です。
少年たちの思い出を彩る
派手で華やかなあの乗り物
30年ほど前まで日本には、巨大なフラッシャーなど電装品てんこ盛りの独特なスポーツ車が存在しました。
“ジュニアスポーツ”とも言われたこの自転車は、今では消滅してしまい、オークションでは高値取引もされているとか。
このジュニアスポーツについて、業界側から見て興味のあることなどを書き留めておきます。
何度かお話していますが、1970年代まで日本で生産されていた本格的なスポーツ自転車は、北米輸出車がほどんど。
1ドル360円の固定相場の時代、北米向けのスポーツ車は、日本国内では高嶺の花でした。
そこで、アルミ部品を鉄に置き換えて、ドロヨケ、キャリア、スタンドを標準装備した日本の“ガラパゴススポーツ”が国内市場向けに販売されたのです。
当時、専用の自転車を買ってもらえる少年は少数派でしたが、彼らにとってスポーツ車は、どこへでも行ける魔法の箒でした。
これに魅せられた一部の少年たちがスポーツ車を愛用し始めると、「ドロップハンドルは背骨が曲がる」と心配した有難い(?)親心から、セミドロップハンドルのモデルが開発されました。
備えられた二灯式ランプはメカニカルな外観で少年たちを射止め、彼らの親御さんへは「片方の電球が切れても無灯にならない」というメリットがアピールされました。
さらに当時、大人気となったモデル〝ハイライザー(※)〟のために開発された大ぶりなシフトレバーを採用し、ジュニアスポーツの先祖が生まれたのは1967年頃でした。
大阪万博も目前、日本全体が上を向いていた高度経済成長期です。3Cのカラーテレビ、クーラーは何とか買えても、最後のC=クルマは家計にとってハードルが高く、少年たちにとっても夢の乗り物でした。
実はブライアンこと私も、セミドロスポーツに乗って、カーディーラーさん回りをしてカタログを集めていました。
そのおかげもあって、60年代末~70年代初頭のクルマ、ちょっとだけ詳しいです(ディーラーさんにとっては厄介な子供ですね)。
少年の自転車に夢を詰め込むことは、商品企画として的を射たものと言えます。
クルマには不可欠な方向指示器ウィンカーが搭載されましたが、初代日産ローレルの流れるフラッシャーに人気が出ると、間を置かず、大型化したリアキャリアにフラッシャーを組み込みました。
フラッシャーは年々大層になり、ジュニアスポーツの顔となりました。大きなシフトレバーは、クルマのセンターコンソールのそれのようになり、中にはH型パターンレバーも登場しました。
各家庭の前に軽自動車やカローラ、サニーが並び始め、さらにイタリア等のスーパーカーがブームになると、ジュニアスポーツにも、スーパーカーのアイコンというべきリトラクタブル(格納式)ヘッドライトが装備されました。
電装系だけでなく、大きなチェーンケースにはメカメカなデカールが貼付され、中にはデジタルスピードメーターやラジオを搭載した商品もありました。
ジュニアスポーツは、価格も高く販売数も見込める、いわばメーカーのドル箱商品でした。そのため、毎年競って多額のデザイン・製造投資を行うことができたのです。
文字数が多くなってきましたので、今回はここまでとします。次回も引き続き、ジュニアスポーツについてお話ししましょう。どうぞお楽しみに。
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『自転車日和』vol.44(2017年7月発売)より抜粋