テーマを見つけて朝サイを楽しむ
朝サイのテーマ 庚申塔めぐり……
当初は、この薄気味悪い(今は思っていないけど)お墓のような石仏を意味も解らず、カメラを向けたら変なものを写っているかも……となるべく近づかないようにしていた。
ナンパした(笑)朝サイ仲間の受け売りだけれど(写真の人物)、実はこの手の石仏の所以は、私のライフスタイルからかなり共感する歴史があることが判明。「庚申講」をある期間である回数を重ねると、その記念? に庚申塔を建てるんだそうだ。
「庚申講とはなんぞや?」というと、簡単に言えば道教や仏教・神教等のぐちゃぐちゃに絡みあった民間信仰で、人間の頭と腹と足には三尸(さんし)という名の虫がいて、年に6度ほど申の刻に閻魔大王に告げ口にいくのを、徹夜で仲間と酒を酌み交わしながら阻止するという遊興的な行事だ。それを3年連続18回、夜明けまで酒を飲んだ達成記念の証に石碑を建てる楽しいイベントらしい。いまあるなら、是非参加したいと思うでしょ!?(笑)
これを知ってから、すごく親近感がわき、ジックリ見ることができるようになった。
庚申パーティの仲間内の記念碑だけの意味ではなくて、街道沿いに建てられた石碑には、道標を兼ねたものもある。区画整理などのために墓地やお寺・神社の片隅に移動させられてしまう石碑が多い中、もともとの街道沿いにきちんと残されているものもある。さらに、建立された年代を調べてみると、へぇ〜 その時代に夜明けまでパーティ年6回もできたのか!? なんてことも見えたりして、とても奥が深いのだ。
得体のしれない薄気味悪い石仏と思っていたのが、可愛らしいと思ったのはこの写真。
多くの庚申塔には、申(猿)が彫刻されている。この写真の場合は左から、見ざる、聞かざる、言わざるだ。それぞれの庚申塔にいろいろな猿の表情があって、可愛らしい。
しかも、その多くは江戸時代に掘られたもの。そんな宴会を年6回も仲間内で、3年連続でできるなんて意外と豊かな社会だったのでは? 見ての通り飲み助達の名前も彫ってある(笑)。こんな発見は、簡単に止まれて、ゆっくり走れるサイクリングならではのもの。たいていの場合、猿はこの位置に掘られている。
建立された年号が読み取れるのも、実は面白い。江戸の大火、富士山や浅間山の噴火の天変地異や飢饉などがあったにも関わらず、庶民の中で庚申講は続けられて、ちゃんと石碑が建立されている事実を発見すると、人々の逞しさを感じざるを得ない。
例えば、江戸時代でもっとも華やかな時代ともいえる元禄にできた庚申塔は、当時の風潮を反映して? 屋根付きのゴージャスな造りとなっている。
この時代は、犬公方ともいわれた徳川綱吉の時代。川越藩主の柳沢吉保が側用人として権勢をふるった時代。文化的にも井原西鶴とか赤穂浪士の討ち入りとかネタの尽きない時代だったはず……そんなことを想像しながら、朝サイ途中に庚申塔を探している。
ちなみに、ここに記載されている元禄15年の暮れに赤穂浪士の討ち入りがあった。松の廊下での刃傷沙汰は14年の話。浪士の討ち入りは有るとか無いとかをネタに、朝まで酒を酌み交わしたのだろうと思うとなんだか楽しいし、仲間に入りたい(笑)。
庚申講も街全体でやるようになると祠(ほこら)のスケールがまったく違ってくるようで、神社なのかお寺なのかわからなかったのだけれど、これは与野宿にある庚申様。
これに参加している飲み助達!? の数は半端ない。実は与野は市場の街として昔は栄えていたらしく、門前町の大宮、宿場町の浦和よりも栄えていたとか。
いろいろ調べてみると、庚申講は場所によっては昭和の時代までおこなわれていたらしく、個人的には復活してほしいと思っている(笑)。
いわゆる旧道沿いに残された庚申塔は、道標の意味合いも兼ねたものが少なからずある。幸い私の街の周辺には、朝サイの範囲で鎌倉街道・川越街道・日光街道・甲州街道・赤山街道それらに派生する街道の跡が多数あり、それぞれ個性的な庚申塔があるので、それはまた紹介させてもらいたい。
ロードバイク乗りが朝っぱらからこんなことをしている姿は奇異でもある(笑)。
Profile 神田秀仁
若い頃はオートバイに狂っていたが、自転車業界(Tommasini,Casati,Calamita)に関わり始めた30年以上前にMTBに乗り始め、20年ほど前からロードバイクに乗り始める。中年以降は、メタボ(脂質異常症)、脊柱管狭窄症、腰椎ヘルニア、アレルギー性喘息等を経験しながら、ダイエットにいそしむ。軽いノリでロードバイク、ラン、スイムを始め、2002年にトライアスロンに挑戦したが、溺れかけ、スイムがトラウマに。その後数年はデュアスロンとなり、奥武蔵を中心にサイクリングを楽しむように。気付けば80kg以上あった体重は、70kg前後に。トライアスロンも復活(宮古島・佐渡・Ironamnを経験)。